人生で3つの苗字を経験した私が思う、苗字とアイデンティティの関係性【二つ目の苗字編】

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前回の記事では、グラデーションのように一つ目の苗字から二つ目の苗字に移り変わる時期を書いてきた。

今回は二つ目の苗字を本格的に使うようになってからの話となる。

中学生(正確には小学4年生頃)から結婚をする前まで使用していた苗字。

今のところ私の人生で一番長く苦楽を共にした苗字でもある。今でも愛着があり、今でも嫌いであり、そして私のアイデンティティを形成した重要な苗字と言っても過言ではない。

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中学校入学以降

中学生から、二つ目の苗字を使うことになった。

苗字を変えるのに、キリがいいタイミングだったからだ。

中学校からは、人間関係も一新されたこともあり、私の一つ目の苗字を知っている人は、ほぼいなかった。一つ目の苗字を引きずることなく、新たな二つ目の苗字を使うことができた。

環境がガラッと変わったことで、私は意外とすんなり二つ目の苗字を受け入れていた。持ち物も全て新しい苗字が書かれている。新しい自分になった気がしたからだ。

そして、二つ目の苗字を使いだして、思い知ったというか、そうだったんだという経験をたくさんしてきた。

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「中国語を話せますか?」という質問の残酷さ

日本人からの「中国語を話せますか?」

まず苗字が明らかに中国人を連想させるから、中国人にしょっちゅう間違われるのだ。

初対面の人と話す時に必ず聞かれるのが中国語話せますか?だ。

小学生までだと、こんな質問一度もされたことがなく、びっくりした覚えがある。

そうか、苗字が中国人っぽくなったから聞かれるようになったのか、と改めて苗字が変わった実感があった。

しかし申し訳ないが、この質問をしてくる人のことが嫌いだった。

私はこの質問に長いこと苦しめられた。聞いてくる人に全く悪意がなく、何気ない会話の一つであるということは頭ではわかっている。しかし、何度も何度も同じことを聞かれることで、一時期この二つ目の苗字が嫌いにもなったほど、この質問は私を傷つけてきた。

両親は中国語を話せないし(父は中華学校に通っていたらしく、日常会話程度は話せるらしい)、祖父母も私に対して中国語で話しかけることは一切なかった。親戚もみんな日本生まれ日本育ちだから、中国語を話せたとしても、みんな日本語で会話をする。

家の中のインテリアはたまたま気に入ったものが中国っぽかったというものが少しあるだけだし、旧正月といった中国らしい行事も一切体験したことがないし、中華料理だっておいしいのと辛いのがある、という程度で詳しいことはよくわからない。

そんな環境だったから、私自身は世間で言う”一般的な”日本人であると思っている。

だから私の感覚としてこの質問は【日本人に対して「中国語話せますか?」と聞いてくることと同じ】だと考えている。なのに、私にだけこの質問ぶつけてくるのは何故なのだろうか。

私は”一般的な”日本人だと思ってきたし、今でもそう思っている。周りの”一般的な”日本人と何ら変わりはない。なのに中国語を話せるのか聞いてくる。何度も何度も。

私は日本人なのに!”みんなと同じ”日本人なのに!なんでいつもいつもその質問をしてくるの?」と、私の日本人としてのアイデンティティをぶち壊す残酷な質問となってしまった。

中国人(華僑)からの「中国語を話せますか?」

逆に生粋の中国人から中国語話せますか?と聞かれる経験もある。

父が中華学校に通っていたため、華僑の同級生が多い。そのため父の友人との飲み会に参加したことがあった。

その友人から中国語話せますか?と聞かれた。私は素直に話せないことを伝える。

すると少し残念そうな顔をして、父にこう話すのだ。

中国語話せないんだって。どうして中国語を教えなかったの?

私は普通の公立・私立の学校に通っていたため、中国語に触れる環境がなかった。

しかし華僑の人たちは両親が中国人のため、日常会話が中国語のことが多い。さらに中華学校に通うと、全て中国語で教育が行われるため、必然的に中国語を話せることになる。だから華僑の人たちにとっては、中国語が話せることが当たり前なのだ。

父は私に中国語を教えることは一切しなかった。理由としては「自分は学習したことで習得した中国語だから、生粋の中国語を話せないし合っているかどうかもわからないから」とのこと。父なりの、下手な中国語を覚えさせない方がいいという配慮だった。

日本人から見た私は中国語が話せそうな日本人?で、華僑の人から見たら中国語が話せそうな華僑の人?となる。

私はどう頑張っても”日本語が話せる日本人”として見られないのだ。

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優しさを感じつつも、私の気持ちは複雑

高校での英語の授業の時だった。

英語を教える教師が、何かのきっかけで中国語も話せるということがクラスに知れ渡った。

そこで生徒は先生に対して「先生!中国語話してみてよ。これは中国語で何て言うの?」と質問をする。

先生は中国語で単語をいう。生徒は大爆笑して、他の単語を言うように要求する。先生が中国語で単語を言う。生徒は大爆笑。

これが何度か繰り返された。

私はこの一連の流れに対しては、全く何とも思っていなかった。嫌悪感を抱くこともなく、笑うこともなく、ただただ「へ〜、中国語でそうやって言うんだ」としか思っていなかった。

チャイムが鳴り授業が終わる。私はいつものように、教科書やノートを片付け次の授業の準備をしようとした時に、英語の先生から「ちょっといい?」と教室の外の廊下に呼ばれた。

私がこの先生に個人的に呼ばれたのが初めてで、正直頭の中は(???)となった。

騒がしい廊下の端の方に呼ばれて、こそっと先生からこう言われた。

さっきの授業では中国語をバカにするような雰囲気にしてしまってごめんね。

この先生からしたら、私に対する最大限の配慮をしてくれたのだ。

しかし私は、

あぁ、この先生も私のことを一般的な日本人として見ていなかったのか。

そう思ってしまった。

私はこの先生に、中国のことなんて何とも思っていないこと、私は中国にルーツがあることも言っていない。わざわざ言う必要がないし、わざわざ言わなくてもいいことだから。

しかし先生は、私の苗字を見て、中国にルーツがあると判断し、馬鹿にしたような雰囲気にしてしまったことを悲しく思っているのではないか、気にかけてくれたのだ。

先生の配慮に対しては、本当にありがとうございます、という気持ちはある。この感謝は全く嫌味ではない。

前まではこの先生のことがよくわからなかったし、授業もよくわからなかったが、この一件で触れることができた先生の心遣いが、優しくて嬉しかった。むしろ先生のことは以前よりも好きになったぐらいだ。

ただ、私は日本人。みんなと同じ。だからその心遣いが、時にはお節介になる。

私自身、この一般的な日本人として認められたいという欲求に囚われすぎていて、優しい配慮にすら素直に受け止められないぐらいに、感情を制御することができなくなってきていたのだ。

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